宮崎特攻基地慰霊碑建立趣意書
戦後、すでに37年の歳月が流れ、終戦記念日を迎えました。白砂青松の海岸線、無限に広がる紺碧の赤江灘と青い空は、いまもなお美しい姿をとどめています。私たちは戦後の混乱期を経て、平和と繁栄の生活を享受しています。しかしその陰には、かつての第二次大戦における数多くの国民の犠牲と、数百万人の戦死、戦没、傷病者があったことを、片ときも忘れてはならないと思います。なかでも、特に祖国の悠久の平和と、最後の勝利を信じて斗った陸海軍特別攻撃隊員および雷撃隊員などの崇高なる精神と遺徳は、永く後世に伝承しなければならないと思います。英霊の顕彰は勿論のこと、生存者各位の貴重な体験は、まさしく歴史の大きな遺産であると信じます。
かつて、この宮崎市赤江町の美田一帯に、多くの地元住民の献身的な奉仕があって、宮崎飛行場が整備されたのは、昭和18年秋のことであります。宮崎海軍航空隊と呼ばれ、同年12月1日に開設、直ちに教育訓練がはじめられました。戦争末期には、宮崎航空基地として、実践部隊の編成、沖縄作戦を初めとする日本防衛の南九州最大の前進基地の一つとして活躍しました。
こうして、戦死に残る陸海軍特攻隊、雷撃部隊の共同作戦により多大の犠牲者を出しております。
なお、この作戦に出撃した機数は、昭和19年10月から20年8月までの間、無慮、数百機に及んでいます。使用された機種は、一式陸攻、飛龍、銀河、月光、零戦、紫電、彗星、天山、彩雲、輸送機などが挙げられ、この宮崎基地から離発着し、南海の空に散っていきました。
いま、私たち生存者が、かつての宮崎飛行場にその遺蹟を偲び誰いうことなく、この跡地にぜひ慰霊碑を建てたいという願いを込めた声が、遼原の火の如く広がったのであります。
37年の歳月は、その様相を大きく変えましたが、なお周辺の一部には、かつての飛龍、銀河、零戦などを収容した掩体壕が数多く残っております。このゆかりの地に関係のあった多くの人たちの霊を鎮める碑が建立されることは、まことに感慨深いものがあります。
この度、赤江、木花地区地元協力会はじめ、旧陸海軍搭乗員の生存者で組織する各戦友会、および宮崎基地在籍部隊会その他、協力団体、一般有志の方たちの熱意を集めて起ち上がり、有終の美を飾りたいと念じております。
慰霊碑には、戦死、戦没者は勿論のこと、宮崎市の大空襲における戦災死亡者、そのほか民間航空殉職者など合祀することにいたしております。
私たちは、昭和56年6月に、宮崎特攻基地慰霊碑建立準備委員会を発足。関係各位の協力を得ながら、57年5月、実行委員会に改称いたしましたが、諸般の条件もととのい慰霊碑建立の気運も高まりましたので、このほど宮崎特攻基地慰霊碑建立期成同盟合を設立した次第であります。
この慰霊碑建立の募金運動を展開するにあたり、私たちの微意の存するところを、お酌みとり下さいまして、この悲願達成と趣意にご賛同の上応分のご援助をいただきますようお願い申し上げます。
昭和57年10月28日